#267 待ち焦がれたメモリアルコーナー

2024年8月3日土曜日

 

今日も天気良好で暑い日になりそうだ。

昨日は山を存分に楽しんだので今日は日本海を見たいと思った。

信濃大町温故郷から白馬を経て糸魚川に車を走らす。

 

 

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糸魚川の海岸はヒスイが採れることで有名なビーチがある。

糸魚川駅から徒歩15分のところにある青海海岸ジオサイトの中のビーチだ。

その名もラベンダービーチという。

ラベンダー色のヒスイが見つかることから名付けられたという。

いかにもヒスイが散りばめる印象があったので立ち寄った。

ラベンダービーチの入口に奇妙なモニュメント像が構えていた。

資料によると縄文時代の統治者奴奈姫をイメージしたオブジェとある。

奴奈姫といってもなんのことやらわかんけど、一礼してビーチに出た。

 

糸魚川の海はこんな感じできれいだった。

いかにもヒスイが散りばめている感じだ。

 

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この夫妻もヒスイ狩りに来たようだった。

ヒスイゲットまでいかなかったみたいだ。

自分もヒスイ狩りチャレンジの気持ちがあったが、猛暑により、少しフラフラになったので断念した。

 



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次は涼しい時期に来ますね。

また来ますね。



 

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ラベンダービーチから30分ほど走ると弁天岩海岸に着いた。

少し高台ではあるが、鳥居が見えたので歩くことにした。

 

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ほどなく歩くと弁天岩の頂から鳥居と日本海ブルーのコラボにテンション上がる。

 



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弁天岩な海は紺碧なブルーで多くの人が気持ち良さそうに泳いでいた。

とても気持ち良さそうだなぁ。

次回は海水パンツを用意しようっと。



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紺碧なブルーの弁天岩海岸に感謝。

また来ますね。

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また来ました、道の駅マリンドーム能生に到着。

ここはいつも賑わっていて活気がある。

 



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この道の駅の人気はボリュームある蟹を海岸で食べれるのだ。



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今日は暑かったので日陰で蟹を食べる家族が多かった。
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次はいつ糸魚川に来れるかな。

また来ますね。

 

次は上越市に車を走らす。

以前からどうしても行きたかったメモリアルコーナーがあるのだ。

そこはリージョンプラザ上越という施設内にある。

ナビ検索でようやくそこに辿り着いた。

ロビーに入るとメモリアルコーナーが目の前に飛び込んできた。



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メモリアルコーナーとは明治大学ラグビー部のみならず日本のラグビーの基盤を作り、日本ラグビーの発展に貢献した北島忠治のメモリアルコーナーである。

北島忠治は新潟の当時安塚村(現在は上越市)で生まれて幼少時はここで育ったことはなんとも感慨深いものがあった。

 

北島忠治について以下の資料記載があったので抜粋して紹介させていただく、ご了承願いたい。

 

新潟県東頸城郡安塚村(現在の上越市安塚区安塚町)出身。

1929年から死去するまで67年にわたり明治大学ラグビー部監督を務めた。

彼の作り上げた明大ラグビー部十訓のもと 「前へ」 と言い続けた彼の言葉は明治の代名詞になった。

 

喧嘩っ早く数校の学校を経て有恒学舎中を卒業、神楽坂の伯母を頼り上京。

喧嘩癖はなおらず、一時は「坂の忠治」との異名をとった。

 

1921年旧制明治大学専門部政治経済科に入学。

元は相撲部出身で、神楽坂の筑土八幡神社でよく練習をしていた。

ラグビーの経験はそれまでなく、大学2年生の時にメンバーが足りないとの理由で助っ人を頼まれたことがきっかけで、相撲部からラグビー部に転部。

1926年に卒業し、まもなく明大専門部法科に再入学する。

1926年 - 1928年まで明大のスクラムセンター(今のフッカー)として活躍。

1928年12月8日に明治神宮外苑競技場で行われた伝統の明早戦には主将として出場している。

 

1929年、明大卒業と同時に監督就任。早大ラグビー部を率いた大西鐡之祐とは全く対照的なラグビー理論を掲げていたため比較され続けられた。

 

1944年7月に大船の富士飛行機に体育課長として迎えられたが3ヶ月で退職、故郷の新潟へ戻った。

戦後すぐに上京、復員してくる部員たちが食糧に困らないように自ら八幡山グラウンド周辺に作物を植え、翌1945年9月には4500kgものサツマイモを収穫した。

明治は復員学生の集まりが遅れていたが、まもなく北島は部員を集めて八幡山を開墾し自給自足による再建を始めた。

 

明治OB達は皆、口を揃えて「厳しくも温かい人柄」であったと伝えている。

また監督が幅をきかせていた他の大学と違い、グラウンド上では大抵学生の判断に任せていたが、手抜きは許さなかった。

また見つけた場合は即刻グラウンドから退場を命じた。

 

北島がラグビーを通じて目指したものは人格陶冶、社会に恥じない人間を育てることであった。

それを示す例として、ラグビー部寮が火災で焼失した際、「家は建てられるが部を再建することは困難である」と新宿の自宅を売って再建したという。

「重戦車・明治ラグビー」のために生き、没した生涯であった。

 

30代前半で禁酒、しかし、1日100本の愛煙家の生涯でもあった。

チームがトライを取るたび、また取られるたびにテレビ画面に映る北島は、泰然とたばこをふかす姿であった。

それがまた彼の魅力を醸し出していた。 

 

また、北島の臨終の言葉は「明治、前へ…」であったことを、看取った北島の息子の妻が明かした。

 

1986年には吉川英治文化賞を、1991年には文部省からスポーツ功労者表彰を受ける。

墓所は八王子市の常修寺。

 

監督在任中1300名の部員を育てた。

1996年大学選手権決勝の早明戦では喪を意味する黒襟のジャージで選手は戦い接戦の末、早稲田ゴール前でスクラム認定トライで逆転勝ちして大学日本一に輝いた。

 

自分が尊敬して止まない理由は、日本ラグビーに貢献した功績もさることながら、懐が深く大きな心を持った人格者であり、男の生き様に惚れ込んだのだ。

 

自分の知りうる北島の思い、感じたことを記す。

 

スポーツは勝負はつきものであり、勝利は絶対条件であるが北島は決して早稲田に勝てとは言わなかった。

正々堂々とプレーをしろ、レフリーの見えないところで反則はするな、練習通りにプレーをしてボール🏈を持ったら一直線に前へ進め!

 

試合開始前に選手に伝えたことはこれだけだった。

たとえ負けても決して選手の名前をあげて非難することはなく、いい試合だったとその一言である。

 

また春の八幡山ラグビー場では高校生や他の大学生が100人前後押し寄せて飛び込み練習参加もラグビーを愛する者は拒まずグランドを貸したという心の広さ。

 

戦後まもない大学選手権で戦争で片腕を失った隻腕の明大の村上選手がギプスを固定し試合に出場するとレフリーが危険極まりないと退場を宣告。

すると北島は明治のラグビーは村上選手とともにある。村上を退場するならこの試合を放棄すると凄い気迫でレフリーに迫り、レフリーは村上選手の出場を認めてプレー続行というエピソードをラグビー雑誌で読んだことがあった。

 

北島は勝負に勝つこと以上にハンディを背負って懸命にプレーに励み、スポーツにハンディは関係ないことを教えた心の熱い教育者だった。

自分はこの記事を読み北島の心の大きさに感服した。

 

また1970年代後半に宿敵早稲田で学内不正選挙が発覚し、連帯責任で早稲田ラグビー部がこの年に公式試合出場禁止の処罰を受けた。

これに反論したのが北島で、不正選挙と早稲田ラグビー部が連帯責任とは不自然であり、ラグビー協会に異議申し立てをしてなんと撤回して、公式試合を認めさせて12月の早明戦が行われたのである。

これは宿敵早稲田も感謝しても感謝しきれない忘れがたい出来事であろう。

 

宿敵早稲田としのぎを削った元監督の大西鐡之助が80歳前後に闘病で入院時に見舞いにも行っている。

北島に言わせるとお互いに歳を取ったから体には気をつけていこうの意味合いで長年のライバルを見舞ったのだ。

これには大西鐡之助は感激し、退院後に明大ラグビー部の記念祝賀パーティに自ら参加してエールを送っている。

 

まだまだ北島のエピソードはたくさんがあるが今日はこの辺で書き留める。

次の機会に書きたいと思う。

 

メモリアルコーナーの展示はまだ続きますので引き続き写真をご覧ください。


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表彰状の中でも日本フェアプレー賞が心に残る。

反則を嫌い、フェスプレーに徹する北島忠治の性格が偲ばれる。

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北島忠治の「前へ」はシンプルだが、奥が深い。

ラグビーだけの前へではなく、苦難の人生を乗り越え、前への心意気が胸に響く。

 

自分の人生にも通じるものがある。

負けない心、常に前への気持ちで向かっていく心意気。

この先の苦難の道があろうとも必ず乗り越えてみせるぞ!

念願のメモリアルコーナーを鑑賞し、明日へのエネルギーが湧いてきた。

遠路はるばる来た甲斐があった。

 

 

以下はおまけです。

次は新潟の十日町に車を飛ばす。

かみさんがところ天を食べたいと言った直後に、

「日本一うまいトコロ天」看板の目立つ店が目の前に飛び込んできた。

かみさんが食べたいというので立ち寄った。

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錦鯉を眺めながら食べるトコロ天もよかった。

 

最後は星峠の棚田に立ち寄る。

観光客がそれなりに賑わっていた。

棚田風景はさほど感動はなかった。

6月の水田の時期が見応えありそうだ。

 

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